「リテラシー」と「文学」

石原千秋『国語教科書の思想』(ちくま新書,2005.)を読了。著者は漱石研究で有名な人です。

国語教科書の思想 (ちくま新書)

国語教科書の思想 (ちくま新書)

あぁ、来年は教育実習に行くんだ、と思いながら読み進めました。
そのなかで気になる箇所があったので、ここに残しておこうと思います。

…では、日本の国語教育はどうすればいいのか。ここで、一つの提案をしておこう。それは、現在の日本の国語教育はあまりにも「教訓」を読み取る方向に傾きすぎているので、それを是正するために、現在の国語を二つの科目に再編することである。
 一つは、まず文章や図や表から、できる限りニュートラルな「情報」だけを読み取り、それをできる限りニュートラルに記述する能力を育て、さらにその「情報」の意味について考え、そのことに関して意見表明できる力をも育てる「リテラシー」という科目を立ち上げることである。この科目においては、「正解」と「まちがい」の違いがある程度はっきり出る。したがって、採点可能な科目である。もちろん、採点の基準は「道徳的な正しさ」では決してない。「正確さ」だけが唯一の採点基準である。(p58-59)

 もう一つは、文学的文章をできる限り「批評」的に読み、自分の「読み」をきちんと記述できるような能力を育てる「文学」という科目を立ち上げることである。なぜ「文学」かといえば、「文学は作者の意図通りに読むべきである」というよほど保守的で頭の固い一部の近代文学研究者でない限り、現代社会においては「文学」は個人の好みでさまざまに読んでよいという共通認識が成り立っているからである。その意味で、書かれたものの中では、文学は誰も傷つけることなく自由に自分の意見を言うことのできる、数少ないジャンルなのである。(中略)
 この場合の「批評」とは、テクストから根拠を引き出すことのできる「読み」や、自分の用いた枠組について言及できるような「読み」のことであって、根拠のない意見や感想のことではない。根拠のない意見や感想は、言いっぱなしになるだけであって、知的なコミュニケーションを生まない。
 しかし、実は根気よくコミュニケーションを行っていけば、一見すると根拠のないように思える意見や感想でも、ある一定の枠組から読んだものだということがわかってくるはずなのだ。その結果、児童や生徒は自分の立っている場所が見えてくる。つまり、自分がそうと意識せずに寄りかかっていた枠組が見えてくる。「文学」という教科は、そのことを炙り出しにするまで、いかに根気よく児童や生徒と対話ができるかにかかっている。(中略)
 したがってこの場合には、教室において複数の「正解」を認めなければならない。つまり、「文学」は採点が不可能な科目である。学校空間のなかに採点をしない科目を作るのである。これはドラスティックな提案かもしれないが、こうでもしないと日本の風土では「自由」な意見は出にくいのでないだろうか。なにしろ、「大人」の世界でも「自由」に意見を言えば、表だって、あるいはやんわりとたしなめるのが、日本のお国柄なのだから(p60-62)。

リテラシー」の必要性は、普段SSGで議論している通りだと思う。
しかし、本当に問われているのは「批評」することではないだろうか、なんてちょっと思ってしまった。
改めて「国語」の持つ可能性を感じた一冊でした。