〈対話〉すること

中島義道『「対話」のない社会』(PHP新書,1997)を読了。

いつも通り気になる箇所を残しておきます。

…みずからの生きている現実から離れた客観的な言葉の使用法はまったく<対話>ではない。<対話>とは各個人が自分固有の実感・体験・信条・価値観にもとづいて何ごとかを語ることである(p102)。

しかし、とくにこの国では、四竃のように真実を語ることよりも「思いやり」を優先する教育者が少なくないので、あえてその危険性を告発したいのだ。こういう人間教育のもとでは、若者たちは「思いやり」を尊重するゆえに真実を語らなくなる。いや、語れなくなる。(中略)真実はいつも他人の配慮の背後に隠れ、追求されなくなるのである。なんと風通しの悪い社会であろうか!そこでは、とりわけ弱者の叫び声は「思いやり」や「優しさ」という名のもとに完全につぶされ続ける(p144)。

読んでいて、改めて<対話>することについて考えさせられた。 <対話>することは大事だ。それはもはや言う必要もないことだろう。
でも、「共生」の名のもと、声高に<対話>の必要性を説く人々には、正直少し違和感を感じる。 <対話>には、膨大な時間が必要となる。また、それだけ時間をかけたとしても、弁証法的によい結果をもたらすとは、必ずしもいえない。

そのようなリスクを背負ったうえで、<対話>することが本当に必要かどうか、場面や状況に応じて考えていく必要があると思う。