新しい「豊かさ」とは

広井良典『定常型社会』(岩波新書,2001)を読了。最近は少し卒論を見据えて本を選ぶようにしています。じゃ、いつもの通りで。

定常型社会―新しい「豊かさ」の構想 (岩波新書)

定常型社会―新しい「豊かさ」の構想 (岩波新書)


…本章でこれまで述べてきたような方向(基礎年金及び高齢者医療・介護の財源を税にし、またライフサイクルの区分に応じて税と保険の役割を整理する)をとる場合、全体として、社会保障給付費の財源のうち「税」の占める割合が相対的に多くなることになる。このようなことから、特に社会保障のための「税」財源をどこに求めるかが大きな課題として浮上することになる。 結論から述べると、筆者自身は、今後の社会保障財源(のうち税の部分)については、「消費税→相続税環境税」がその有力な財源となるものと考えている(p63)。

 ところで、先ほどふれたような背景(企業にとっての社会保障の負担の重さと失業問題など)だけでは、社会保障財源として「なぜ(他でもなく)環境税なのか」という、積極的かつ十分な理由づけが与えられているとは言えない。これについては、次のような点がその根拠として考えられるだろう。
 まず挙げられるのは、特に医療ないし健康問題との関連であり、環境に負荷を与えている企業は、何らかのかたちで人々の健康状態やQOL(生活の質)を損なっていると言えるから(したがって医療や福祉に関する社会保障コストを高めていると考えられるから)、いわば加害者負担の原則のルールとして社会保障の財源を負担するべきだというものである。
 さらに、より実質的でかつ広範な視野に立つ論拠としては、次に述べるような「労働に対する課税から資源・環境への課税のシフト」という視点が重要ではないかと考えられる。(中略)言い換えれば、現在の税体系では企業がエネルギーや資源生産性(資源効率性)を上げることよりも、労働生産性を上げることに注力するのは無理のないことであり、したがって、こうした税・社会保険料体系を「労働への課税からエネルギー・資源への課税」へと転換していくことで、企業行動を「労働生産性から資源効率性重視」へという方向に誘導・転換させてゆく効果をもつことが論じられている(p97-98)。

 ここで、本書の後の議論とも関わる本質的な議論として、次のことを明らかにしておきたい。それは、「自由」ということを「潜在的自由」という意味で理解するならば、「機会の平等」の保障とはすなわち「(潜在的な)自由」の保障ということと同じである、という点である。(中略)
 さらに、こうした発想で「自由」と「平等」の意味をとらえなおしていくと、その必然的な帰結として、「社会保障とは、(個人の)自由の実現のためにある制度である」という、新しい認識が生まれることになる(通常、社会保障は「平等」のための制度と考えられているが)。つまり、前章から述べているように、これからの社会保障は「個人の機会の平等」(の保障)ということを基本理念として再編されるべきであるが、そこでの「機会の平等」とは今論じているように「潜在的な自由」ということと重なり合っている。したがって、社会保障というシステムは、様々な個人がその「潜在的な自由」を実現できることを保障する制度に他ならないし、またそうあるべきではなかろうか(p78-79)。

 以上の点を踏まえた上で、ここで先にふれた「定常化社会における個人と公共性」という問題について考えてみよう。(中略)
 すなわち第一に、人々の基礎的なニードに対応する、いわばベーシックなサービスないし保障については、あくまで「公的」な財政の枠組みで対応する。このうち、①ミニマムな生活保障に関わる部分(言い換えれば所得再配分的な施策。具体的には生活保護など)についてはもっとも公的ないし措置的な性格を強く残し、一方、②普遍的な「対人社会サービス」の領域(たとえば医療、介護、保育など)については、いわゆる「擬似市場」の仕組み、つまり「財政面は公的に保障しつつ、サービスの供給主体は営利・非営利を通じた民間の主体の積極的導入を図る」かたちが妥当であろう(p166-169)。

 論点はたくさんあると思いますが、ここでは一点だけ。
 社会保障の一つとして<公教育>を考えた場合、上に挙げた引用文の「対人社会サービス」に該当するのでしょうか?<公教育>が医療や介護と決定的に違うのは、将来の職業配分との問題に関わってくるということです。その意味では<公教育>は「人々の基礎的なニードに対応する、いわばベーシックなサービス」に属するのはないかと僕は思います。

そのために<公教育>はどのようなサービスを提供すべきなのか。これから考えていきたいと思います。