「学力」を改めて考える

志水宏吉『学力を育てる』(岩波新書,2005)を読了。

学力を育てる (岩波新書 新赤版 (978))

学力を育てる (岩波新書 新赤版 (978))

これまでの筆者の学力論の集大成といった感じ。志水さんの文章を読むと、なにかすがすがしい気持ちになる。

…近年の論調では、「子どもたちの学習意欲の低下こそが最大の問題である」と語られることが多い。「子どもの意欲を高める働きかけこそが、教師が考えなければならないポイントである」と主張されることも多い。しかしながら私は、こうした意見には反対である。学力問題の核心は、「子どもたちの意欲をどう高めるか」という「意識」の問題では決してなく、「子どもたちの習慣づけをどう図るか」という「行動」レベルの問題であると考えられるからである。
 もともと勉強がきらいだという子がいないのと同様に、生まれつき学習意欲が低いという子どももおそらく存在しない。逆に、世の中のすべての事柄に対して意欲をもっている人間というのも考えにくい。「意欲」というのも個人に内在するものではなくて、環境と関わりで生じるものである(p120)。

今日の日本では、新自由主義的な考え方が広がり、選択と自己責任をキーワードとするような市場社会化が確実に進行しているように思われる。そこでは、持てる者と持たざる者との格差がどんどんと拡大していき、「勝ち組」と「負け組」とのギャップがますます顕在化していく。ブルデュー流に言うなら、経済資本・文化資本の多寡によって、生活のしやすさや快適さに大きな違いが出てくる社会になりつつあるのである。
 そうしたなかで、教育というものの役割を考えるなら、まず教育は、経済資本に働きかけることはできない。それは、所得の再配分や社会保障の領域にかかわる事柄であり、教育にかかわる者にとっては、家庭の間にある経済資本の格差は「所与」のものとして扱えるにすぎない。「豊かな」家の子とそうではない家の子がいるのは、大前提なのである。
 次に文化資本であるが、これはまさに学校が伝達することを期待されているものである。必ずしも文化資本に恵まれたわけではない家庭に生まれ育った私が、まがりなりにも大学教員でいられるのは、学校システムによって「引き上げられた」からである。(中略)しかしながら、そのコインの裏面として、学校教育のメリットを享受することなく社会に出ていった多数の仲間たちがいる。(中略)要するに、学校は文化資本を次世代に伝達できるが、それは決して万能ではない。すなわち、万人がそれを享受できるわけではないのである。
 そこで、ブルデューの三つ目の要素、「社会関係資本」の登場となる。第3章でふれたように、社会関係資本とは「人間関係が生み出す力」である。人々の間に存在する信頼関係やきずな、ネットワークやコネクションが社会関係資本の実態である。(中略)
 経済資本・文化資本のカベは決して低くはないが、そのカベは、社会関係資本を蓄積していくことによって十分に克服可能である。(中略)第4章で取り上げた「力のある学校」とは、そのような「社会関係資本」が高度に蓄積された学校」、すなわち「信頼関係のネットワークが重層的にはりめぐらされた学校」と形容することもできよう(p198-201)。

「力のある学校」について興味のある方は、志水さんの『学力の社会学』(岩波書店,2004)『公立小学校の挑戦』(岩波ブックレット,2003)もおすすめ。あとは鍋島祥郎さんの著作を読むといいと思います。

公立学校でもここまでのことができるんだ、と少し希望を持ちました。