結局

体調悪くても本は読むぞ〜

ってことで、この間、本田由紀内藤朝雄後藤和智ニートって言うな!』(光文社新書,2006.)を読みましたが、うすさんの方でレビューがされているので、そちらをご覧くださいませ。

参考までに3氏のBlogにリンク貼っときます。

本田さん:http://d.hatena.ne.jp/yukihonda/

内藤さん:http://d.hatena.ne.jp/suuuuhi/

後藤さん:http://kgotoworks.cocolog-nifty.com/youthjournalism/

で、つい先ほど、齋藤純一『思考のフロンティア 公共性』(岩波書店,2000.)を読了。

公共性 (思考のフロンティア)

公共性 (思考のフロンティア)

『思考のフロンティア』はシリーズものですが、本当におすすめですよ。ページにして100前後ですが、とても内容が濃い。タイトル通り、思考が触発されます。

引用が多いので最初はためらっていたのですが、ここにすべて載せようと思います。

 公共性と共同体にはどのような違いがあるのだろうか。まず指摘できるのは、共同体が閉じた領域をつくるのに対して、公共性は誰もがアクセスしうる空間であるという点である。(中略)第二に、公共性は、共同体のように等質な価値に充たされた空間ではない。共同体は、宗教的価値であれ道徳的・文化的価値であれ、共同体の統合にとって本質的とされる価値を成員が共有することを求める。これに対して、公共性は、複数の価値や意見の<間>に生成する空間であり、逆にそうした<間>が失われるところに公共性は成立しない。第三に、共同体では、その成員が内面にいだく情念(愛国心・同胞愛・愛社精神等々)が統合のメディアになるとすれば、公共性においては、それは、人びとの間にある事柄、人びとの間に生起する出来事への関心(interest)である。公共性のコミュニケーションはそうした共通の関心事をめぐっておこなわれる。公共性は、何らかのアイデンティティが制覇する空間ではなく、差異を条件とする言説の空間である。最後に、アイデンティティ(同一性)の空間ではない公共性は、共同体のように一元的・排他的な帰属(belonging)を求めない。公共的なものへの献身、公共的なものへの忠誠といった言葉は明白な語義矛盾である。公共性の空間においては、人びとは複数の集団や組織に多元的にかかわること(affiliations)が可能である。(中略)このように公共性は、同化/排除の機制を不可欠とする共同体ではない。それは、価値の複数性を条件とし、共通の世界にそれぞれの仕方で関心をいだく人びとの間に生成する言説の空間である(p5-6)。

 …この公共圏では、自分が語る意見に耳が傾けられられるという経験、少なくとも自分の存在が無視されないという経験が可能となる。第Ⅱ部でも見るように、対抗的な公共圏の多くは、それを形成する人びとの具体的な生/生命に配慮するという「親密圏」としての側面もそなえている。自らの言葉が他者によって受けとめられ、応答されるという経験は、誰にとっても生きていくための最も基本的な経験である(p15)。

 …アーレントが見るように、この境遇の問題は、人びとが「他者に見られ、他者に聞かれるという経験」を失うということにある。それは、他者の不在という堪えがたい状況に堪えることを人びとに強いる(念頭にあるのは主に都市部の高齢者であるが、育児や介護に長期間縛り付けられている人びとも含まれる)。マイノリティとして自らを理解し、自らの公共圏をつくりだしていくための最低限の資源、つまり他者の存在がこの境遇には欠けている。孤独な境遇を生きざるをえない人々は、その意味で、公共的な空間から最も隔たったところに位置している(誤解のないように付言すれば、「孤独」〔loneliness〕と「一人でいること」〔solitude〕とは異なる。後者は、他者との関係から自分だけの空間へと自分だけの空間へと自ら退去することであり、思考という内的対話を始めるための条件でもある。)(p17)。

 「思考する自由」にとって「思考を公共的に伝える自由」は必須の条件である。アーレントにしたがって、思考を「内的対話」としてとらえるならば、思考とはそれ自体ある種の公共的空間である。なぜなら、複数の異質な「自己」が存在するのでなければ対話は成り立ちえないからである。そして、そうした「内的対話」を可能にするのは現実の他者との間の対話である。他者の思考に触れ、それによって現状の思考習慣が動揺するとき、私たちの思考は始まる(p26)。

 ある人の意見が失われるということは、他にかけ替えのない世界へのパースペクティヴが失われるということである。ある人が公共的空間から去るということは、それだけ私たちの世界が貧しくなるということを意味する。なぜなら、正確にいえば世界そのものというものは存在せず、「世界はこう見える」が複数存在するだけだからである。意見とは、絶対的な真理でもなければ、あってもなくてもよいたんなる主観的な見解でもない。(中略)意見=判断をより妥当なものにするには、自らとは異なったパースペクティヴが他者によっていだかれていると事実をわきまえ、他者のパースペクティヴを考慮に入れる――それが闇雲な感情移入ではないことにアーレントは注意を促している――ことである。この他者の立場にあったら事柄はこのように違って見えるかもしれないという仮説的な思考における幅が、私たちの判断にそれだけの妥当性を与える。それがけっして普遍的な妥当性に達しえないのは、私たちの視野に入っていない他者が世界にはつねに存在しているからである。逆にいえば、普遍的妥当性への要求はある種の傲慢をともなっている。普遍的な妥当性をあきらめる(明らかに見ること)が、人‐間の根底的な複数性を破棄しないための条件、「世界を他者と共有すること(sharing-the-world-with-others)のための条件である。私たちは私たちのアテンションを飛び超えることはできないということ。他者がいるということはこのことを意味している(p50-52)。

公共的に対応すべき生命のニーズをどう解釈し、どう定義するかは、行政に委ねられるべき仕事ではない。生命のニーズが公共的な対応に相応しいかどうかを検討し、それを定義していくことは、まさに公共的空間における言論のテーマである。ナンシー・フレイザーの言葉を用いれば、公共性は「ニーズ解釈の政治」がおこなわれるべき次元を含んでいる。この政治における最も基本的な抗争のラインは、生命の何らかの必要を公共的に対応すべきニーズとして解釈する言説と、そうした必要を個人/家族によって充足されるべきものとして「再度‐私化する」(re-privatize)言説との間にある。フレイザーによれば、後者がとる戦略は、新しいニーズとして解釈され、提起されるものを「家族化する」(familiarize)こと、および/あるいは「経済化する」(economize)ことである。つまり、公共的対応を求めるニーズを家族や親族の手によって充たされるべきもの、自らの力によって市場で購買すべきものとして定義することによって、そのニーズを再び公共的空間から追放する脱-政治化の戦略である。そのために用いられるレトリックはよく知られている。「自助努力」「自己責任」「家族愛」「家族の絆」などである(「家族化する」「経済化する」に加えて、「市民社会化する」という新たな戦略も付け加わるべきだろう。そのレトリックは、たとえば「市民の活力」であり「地域の連帯」である)(p62-63)。

内容としては、本当に簡単に言うと、ハンナ=アーレントハーバーマス、カント、フーコーなどの言葉を引きながら、「公共性」について今何が争点になっているかを整理したものです。

いやぁ〜久しぶりに「当たり」の本でした。やっぱし古典に当たらんとダメだなぁと痛感。また、3年間で自分が考えてきたことがいろいろ思い起こされてきて…さらには病気で頭が朦朧としてきて…よくわかんな〜い状態に(笑)

病気が治ったら読み直してみる必要があるかな。