日本とドイツではなにが違うのか

更新さぼってました…どうもすいません。

BOOKLOGのところにもコメント未記入のものがかなりあるので、ちょくちょく書いていきます。

で、今回も読書日記。
仲正昌樹『日本とドイツ 二つの戦後思想』(光文社新書,2005.)を読了。

日本とドイツ 二つの戦後思想 (光文社新書)

日本とドイツ 二つの戦後思想 (光文社新書)


今年の読書のテーマは、かなり大まかだけど「経済」そして「歴史」。
知らないからって理由で忌避してきたけど、やはり教育を考える上でも避けては通れないと思うので…

それぞれの国の「戦争責任」の違いが、その後の国家体制、マルクス主義ポストモダン状況にも違いを生んでいる、ということを日本とドイツを比較して論じている、ってな感じの内容でした。

「ドイツは戦後の反省をきちんとしたから、日本もそうすべきだ」と単純な考えが自分のなかにはあったのですが、それが一概には言えるものではないということが、この本を読むとよくわかる。

個人的に面白かったところの引用を。

 古代ギリシャやローマにおいて公的な場での討論に参加する「市民」たちが身に付けておくべきとされた「フマニタス」(引用者註:人文主義的教養のこと)という資質は、あらゆる(生物学的な意味での)人に生得的なものではなく、論理学やレトリック、相手を説得するための雄弁術などの技法を学習し、それらを実際の会話の中で応用して、自己を鍛錬していく中で習得されるものである。その意味では「教養」である。こうした「教養」としての「人間性」概念は、ルネサンスを経て近代市民社会にも受け継がれ、ドイツでもギリシャ語やラテン語の古典的テクストの学習を通して、フマニタスを身に付けることを目的とした「人文主義ギムナジウム」が設立された。
 しかし、国民主権人道主義ヒューマニズム)を政治の最も基本的な原理とする市民社会は、そうした人為的に構築された「人間性」とは別に、たとえ何の教養がなくても、人として生まれさえすれば誰もが“自然と”持っている「人間性」概念をも生み出した。(中略)
 スローターダイク(引用者註:ドイツの哲学者・詳論家)はそうした「人間性」概念も含めて、「フマニタス」というのはもともと、動物的な本能剥き出しの状態に陥りやすいヒトを、文明の状態に留めておくための一つにすぎなかったと断言する(p228-230)。

この箇所を読んで思ったのは、自分にも「フマニタス」信仰があるのかな、ってこと。
動物化」がわたしたちの間で進行しているなかで、「だからもう『フマニタス』的な教育はいらない」と言い切ってしまえるのかどうか。その点についてはちょっと疑問。

ただ、ドイツの戦後思想と比べることで、日本の戦後思想の流れはかなりクリアになった。ちょっとむずかった記述もあったけど。

せっかく仲正さんの本を取り上げたので、今度は『「不自由」論』(ちくま新書,2003.)を取り上げてみようかな。