教育における「自己決定」の問題

最近バイトに精を出しているのですが、パソコンに向かってのデスクワークなので、まとまった文章を書こうと思う気が失せてしまうんですよねぇ。

…そろそろごたくは抜きにして、いつもどおり読書日記、始めましょうかね。

予告したとおり、結構前に読んだ本ですが、仲正昌樹さんの『「不自由」論』(ちくま新書,2003.)を取り上げようと思います。

「不自由」論―「何でも自己決定」の限界 (ちくま新書)

「不自由」論―「何でも自己決定」の限界 (ちくま新書)


この本は、現在何かと議論のなかで出てくる「自由」「主体性」「自己決定」という言葉をどのように考えていけばよいのか、ということが、アーレントやルソー、デリダなどを引き合いに出しながら書かれています。

教育のことに関して言えば、第三章の「教育の「自由」の不自由」で「ゆとり教育」や「自由主義史観」のことなどをトピックに挙げながら、教育と「主体性」との関係を論じています。

以下は、一番気になったところの引用。

…現実には、決定の対象となる「イマジナリーな領域」の境界線を“どこか適当なところ”で引いて、「状況」設定し、「自己決定」という形を取ることになる。いつまでも考え続けるわけにはいかないので、どこかで“決定”という形を取るのは、致し方のないことだろう。問題なのは、そうした「自己」の在り方自体をめぐる再想像が必要になっているということが、なかなか意識化されないことである。そのせいもあってか、既に確定している患者の「自己」によって、主体的な「決定」がなされるかのような、素朴な「自己決定」論が蔓延している。(中略)
 「決定」するに先立って、いちいち「自己」を再想像していれば時間はかかる。特に、「医師と患者」、「教師と生徒」、「弁護士と依頼人」のような、暫定的な契約に基づく関係性ではそれほど時間をかけることはできない。時間をかければ経済的効率が悪いので、前者の側から後者の側に対して、「早く自己決定するように」という圧力がかかることが多い。専門的な経験の豊富な前者が後者になり代わってその利益を代行する形で決定することを、一般的に「パターナリズム(pateralism:温情的干渉主義)」と言うが、様々な文脈で「説明責任accountability」が声高に叫ばれている現状では、後者に「責任」のほとんどを負わせてしまうことができる「自己責任」の方が、前者にとっては、パターナリズムよりも“便利”である。当人の置かれている状況を全般的に把握することが「責任」として要求されるパターナリズムよりも、「契約」という限定された枠内で、専門的知識を当人に正確に提供しさえすれば専門家としての「責任」を果たしたことになる「自己決定」論の方が、業務を加速することができる。効率性を重視する「新自由主義」の経済思想と、「自己決定」論とは親和性があるのである(p195-196)。

ebonyさんからコメントをいただいたときに、「学校と地域の『連携』」のことについて少し触れましたが、まさに「連携」の危うさもここにあるのではないかと思います。

「連携」や「学校参加」という議論の背後にある考え方というのは、「教育を受ける『当事者』(学校という場であれば、生徒を含め親・地域の人々を指す)が自分たちにとって望ましい方向に学校を浴していく」というふうにまとめることができると思います。ただ、『当事者』が本当に自分たちにとって「望ましい」ものが選べるのでしょうか…?特に教育という所作は、直接的に成果がみえない難しいものでもあります。それを「自己決定」にゆだねてもよいのだろうか…。

実地研究や授業を通してこのテーマについて考えてきましたが、ひとつ問題を提起する上でここに残しておこうと思い、書き込みました。
コメントをいただけると嬉しいっス。