理解可能/不可能な他者

教育の世界では、とても美しい言葉が並べられる。

「個性尊重」「生きる力」…云々。

それらに乗っかってゼミでも話をすることが多い。

でも、、、この3年間ぐらいず〜っとそういう言葉、そして議論の仕方にも「違和感」を持っている。

いわゆる、「教育言説」なるものへの「違和感」の方は、多くの方に共感していただけると思っている。「主体性」についての問題はゼミでも扱ったし。

私が気になるのは、そのような議論をすることの裏側にある問題である。

以前、『〈対話〉のない社会』を読んだときの感想として、「〈対話〉の難しさ」を前のブログでも書いたことがあるが、〈対話〉というのは、異なる価値観を持つ者どうしが互いの価値観をぶつけあうものだと私は解釈している。つまりお互いに「理解し得ない者」どうしのやりとりのことである。

教育に関する議論、とりわけ「公共性」に関わる議論をするときに、このことがどれだけ意識されているのだろうか。私は疑問である。

そこで語られる「他者」というものは、「理解可能な他者」でしかないのではないだろうか。本来考えるべき対象であるはずの「理解不可能な他者」は、捨象される。

議論する場において、そもそも「理解不可能な他者」が入ってくることはまれなので、どうしても内輪で固まってしまうのは避けられないことではあるかもしれないが、「理解不可能な他者」のことを頭の片隅に置くか、それともバッサリと切り捨てるのかでは、内容は大きく違ってくる。

さらに、教育というものがほぼすべての人になされる以上、「理解できない」からといって無視することはできない。 お互いに理解しあえなくても、おとなは子どもに、教師は生徒に知識や技術を伝達していく必要がある。

つらつらと書いていったが、様々な場面で「理解できないなら、無視(排除)すべし」といったようなことを見たり聞いたりして(自分がそう思っているだけか?)、ここ最近で思ったことを言葉にしてみた。

意見・感想があればお願いしますm(__)m