若者に見る現実/若者が見る現実

若者の労働と生活世界―彼らはどんな現実を生きているか

若者の労働と生活世界―彼らはどんな現実を生きているか

この本から受けた示唆は大きかったので、少し書き残しておこうと思います。
目次は以下のとおり。

はじめに

1◆若者を取り巻く社会状況
序章 若者に見る現実/若者が見る現実(本田由紀・平井秀幸)
第1章 日本特殊性論の二重の遺産
――正社員志向と雇用流動化のジレンマ(高原基彰

2◆若者の労働
第2章 コンビニエンスストア
――便利なシステムを下支えする擬似自営業者たち(居郷至伸)
第3章 ケアワーク
――ケアの仕事に「気づき」は必要か?(阿部真大・前田拓也)
第4章 進路選択と支援
――学校存立構造の現在と教育のアカウンタビリティ
(大多和直樹・山口毅)
第5章 就職活動
――新卒採用・就職活動の持つシステム(齋藤拓也)

3◆若者の生活世界
第6章 ストリートダンスと地元つながり
――若者はなぜストリートにいるのか(新谷周平)
第7章 過食症
――「がんばらなくていい」ということ、「がんばらなければ治らない」ということ(中村英代)
第8章 援助交際
――「援助交際」体験者のナラティヴ(仲野由佳理)
第9章 若年ホームレス
――「意欲の貧困」が提起する問い(仁平典宏・湯浅誠

あとがき

特に、序章・4章・9章が非常に興味深い。
まず序章から紹介したいと思う。
各章の概要が示された後、平井は以下のように述べる。

若者の問題が、彼らを自分たちの隣人としてどう遇し、共生していくかという課題や、若者が抱える苦しみや豊かさが"われわれ"と境界のない線分上にあることへの気づきとして開かれるとき、言い換えればそれが「社会的(social)」な問題であると感じられるとき、われわれの前には古くて新しい課題がおぼろげながらその姿を現すことになる――(p.34)。

「社会的なもの」という言葉は、市野川容孝の『思考のフロンティア 社会』asin:4000270060によるものであるが、市野川が「社会的なもの」を「開きつつ閉じること」と形容したことを挙げ、さらに平井は以下のように続ける。

言うまでもなく、社会学はあらゆるもの(「社会的事実」)を例にとって、そこに「潜在的機能」(マートン)「意図せざる帰結」(ヴェーバー)「社会的構築性」(社会構築主義)を見いだしてきたし、それはそれで意義のあることであった。時として「政策志向性がない」「相対主義」との揶揄を受けながらも、そうした営みは世界が一なるものでないこと、「多でありうること=複数性」を"開く"点で開放性を有したと考えられる。しかし、他方で、(自らのもつ価値が他でもありうるひとつの価値であることを十分自覚しつつ)社会学は自由のための平等な生の保障という明確な「社会的」価値を擁護する("閉じる")ことができる。現に、社会学創始者の一人に数えられるエミール・デュルケムは、社会を事物のように観察する実証的社会学の基盤を創るとともに、「社会的な」連帯に基づく特定の価値を保持してもいたのだった。

本章の表題でもある「若者に見る現実」と「若者が見る現実」、両者は入れ子状の観察関係に置かれている。「若者」に見る現実を徹底して複層化、複数化する("開く")本書の執筆陣(社会学者)は、同時に「若者」の一人として自らが開いた領域に投げ出される。若者である社会学者(本書の執筆陣)が見る「現実」はその領域に彼らが負荷なき自己として存するのではなく、「社会的なもの」を再考/再興する者として顕れるなかで、立場性(positionality)を問われ、多様だがたしかな方向性をもって示されていく("閉じる")。そしてそれは再び「若者」に見る現実によって問いなおされる……。
「開きつつ閉じること」は、次なる「開きつつ閉じること」へつながれ、豊饒化していくものにほかならないのだ(pp.39-40)。

このようにまとめた上で、「生の保障」をめぐっての見解の相違――それは社会学と「教育」社会学の差異でもある――が4章と9章で明らかになる。

詳しいことは次回(があるかどうかはわからないが…)ということで。