「教育」と「人権」のトレードオフ

記憶が風化しちまう前に写経しておこう。
最近読んだ広田照幸さん・平井秀幸さんの「少年院処遇に期待するもの―教育学の立場から―」『犯罪と非行』第153号,2007,pp.6-23.より。
この論文は少年院の処遇について、広田先生のグループが行っている研究を踏まえながら、今後の取り組みについて提言を行っている論文である。
「少年院処遇」と題されているけれどもこの論文、教育学全般に反省を促しているものでもあったりする。

教育学の歴史は、教育に無限のパワーを期待する教育万能論の誘惑に抗いつつ、もう一方で、教育不可能性/教育不要論と苦闘してきた、そのような歴史であるということができる。(・・・中略・・・)われわれは、このような両極端の発想に陥らないようにしないといけない。教育には限界がある。その限界を知りつつそれをできるだけ向こう側に押しやろうとする、果てしなき努力こそが、現実の教育の営みなのではないだろうか(p.7)。

以下、教育の限界を6点挙げている。かいつまんで言うと
(1)教育者が意図した影響をすべての被教育者に及ぼすことは不可能であること。
(2)被教育者の側に自発性がなく、かつ教育関係から離脱可能な場合、教育の効果を挙げるのはかなり困難であること。
(3)内面の変容を促すことは他の教育目標に比べて困難であること。
(4)教育の過程では、教える意図とは違った内容が伝わってしまうことがあること。
(5)フォーマルな教育の内容を、インフォーマルな反学校分化が減じてしまう可能性があること。

そして、最後の一点が人権とのトレードオフ関係である。

つい忘れられがちだが、教育関係は、一種の権力的な関係である。教師−生徒の間は、立場が入れ替わることのない、非対称な関係である。教育的な関係は、同時に、命令(指示)−服従(指示されたことの遂行)という秩序関係でもありうる。教育の名のもとで行われるべき行為の範囲を人権との関係で常に限定づけておく必要がある。(・・・中略・・・)
「教育」は、個人が持つ完全な「市民的自由」を、ある部分で制約することによって成りたっている。「教育」と「人権」とは、ともに近代社会の産物である。しかし、両者は対立する要素をはらんでいるのである(p.10)。

明日も早いので今日はここまで。