修論そっちのけで

作ったレジュメが先生に好評でした。
これでまた少し頑張って生きてゆけます。
修論もやります。はい。

というわけでレジュメ貼り付けておきますね。
2008/11/17
橋本努,2007,「ネオリベラリズム論」『帝国の条件』弘文堂,pp.118-208.

要約
 本論文(本章)では、ネオリベラリズム概念と、ネオリベラリズムに対する批判を整理・検討した上で、新しい観点からのネオリベラリズム批判を試みている。これまでに出されたネオリベラリズム批判は、そのいずれもがネオリベラリズムに1)包摂されるもの、2)補完するもの、3)ダミーであるものであることを示しているが、これらの批判を徹底すると、「われわれの幸福はいかにして正当化されるのか」という「幸福の神義論」の問題に行き着く。この神義論を乗り越えるためには、ネオリベラリズムを認めつつも、問題化するというような闘争的な関係が要請される。

0 はじめに
ネオリベラリズム
レーガンサッチャー・中曽根政権(具体的には国鉄・電話公社民営化、所得税累進課税率低下)

■各方面での批判
アジア通貨危機中南米債務危機、貧困、失業、所得格差拡大、
学力崩壊、学力格差拡大、福祉サービスの劣化、監視社会etc.
→「ネオリベラリズムの思想・政策によるグローバル化は規範的に見て望ましいものではなく、むしろこれをグローバルな市民運動によって阻止していくべきだ」(=「絶対的他者」)

■しかし、ネオリベラリズム批判言説は、ネオリベ本体に包摂されたり、補完されるものであったりする
■問われるべきは、ネオリベラリズム思想がもつ可能性とその限界
既存のネオリベラリズムが脆弱であるとして、私たちはその地平をいかにして乗り越えることができるのだろうか

1節:1)現代のネオリベラリズム批判が置かれた文脈の検討
   2)ネオリベラリズム概念の多義性
   3)ネオリベラリズム概念の変容
2節以降:ネオリベラリズムに対する諸批判の意義の整理・検討
   1)ネオリベラリズム思想に包摂されるもの
   2)ネオリベラリズムの企てを補完するもの
   3)ネオリベラリズムの影法師=ダミー(替え玉)となるもの
   4)神義論批判として徹底したもの

ネオリベラリズム批判の徹底
→「幸福の神義論」
はたしてグローバリゼーションが進行する社会の下で、私たちの社会の幸福はいかにして正当化されるのか 

1 ネオリベラリズム批判の地平
1−1 歴史的地平

ネオリベラリズムは「市場経済批判論」の系譜に連なる
1)貨幣の物神性批判
マルクス主義者による批判
・市場社会は貨幣を神と崇めるような社会で、人間同士の豊かな関係を失っている
・貨幣を媒介する社会は、人との間の人格的な依存関係を解体する

→現代の資本主義は、むしろ「貨幣の物神性」を克服しようとしてきた
(…人々の意識の価値の多元化に伴う文化的成熟が原因)
ネオリベラリズムの新しさは、貨幣の物神性が社会に埋め込まれる中で「政府より市場が重要」という考え方を示している点にある
2)道具的理性批判
新古典派(経済学)の限界効用理論に代表する思考=「道具的な理性」に代わって、政治的合意形成のための「討議的(コミュニケーション的)理性」(ハーバーマス)を社会の統治原理に据える
・国民経済における財の配分を討議・コミュニケーションによって集合的に最適化すること

→2点においてネオリベラリズム批判としては無効
(1)市場経済の中心が製造業からサービス産業に移行するにつれて、経済学的思考と道具的理性との結びつきが自明のものではなくなっている(ネオリベラリズムは「創造性」「ネットワーキング力」を要請する)
(2)ハーバーマスの討議的理性は、財配分の効率的調整の問題に対して、実践的な指針を与えていない(ネオリベラリズムは計画的理性の限界から出発しており、実効性がある)

3)レッセフェール(自由放任主義)批判
・従来の自由放任主義とその批判は、功利主義の方法論に依拠
 「自由放任主義」…政府が市場に介入しないほうが国家/社会全体の効用=厚生が増大
 「厚生主義」…社会全体の効用=厚生を増大させるために政府の役割あり

ネオリベラリズムでも、とりわけハイエクネオリベラリズム思想は、社会的効用関数の概念を否定(功利主義の基準ではなく「文明の繁栄」に訴えて自由を論じる)
ネオリベラリズムは自由放任主義と異なり、政府の役割を大幅に認めている

1−2 思考法の地平
ネオリベラリズムは『中核となる思考法』で致命的な誤りを犯している」という批判
…本当か??

(1)「市場原理主義」批判
ネオリベラリズムは「市場原理主義」的思考を持つ点で望ましくない
グローバル化した経済は、地域社会に埋め込まれた文化的価値を解体する(ワルラス流思考)

→批判が有効でない理由
1)ワルラス的思考は、市場社会に特有なものではない(社会主義社会・福祉国家にも存在)
2)ハイエクの思想は、社会工学的な発想を批判しており、ワルラス的思考の対極にある
?3)グローバル経済は、必ずしも普遍的な価値の追求による地域的価値の喪失を招くわけではない

(2)「見えざる手の濫用」批判
ネオリベラリズムは、「神の見えざる手」を信頼しすぎているだけではなく、それどころか濫用している
アダム・スミスが「見えざる手」を言った時の時代状況は外国産業より国内産業が有利に働く状況があったが、現在は国内産業への資本投資が安全とは言い切れない

→批判が有効でない理由
1)ネオリベラリズムは「帰結主義」であり、国富や世界経済の繁栄を考える視点を持つ(第2節で検討)
2)仮に国家が、国富を消失するような自由放任政策を採るならば、その国の企業の株価は下落する
ネオリベラリズムは「見えざる手」の適用拡大が持つ危険性を、自生的に形成された評価機関によるもう一つの「見えざる手」によって抑止する)

(3)「反政治主義」批判
ネオリベラリズムは、政治的意思決定過程を最小化して、市場のコミュニケーション過程を重視するから、反政治的で望ましくない
ネオリベラリズムは「市民」による自治や連帯を否定し、政治的公共空間において人々が互いに人格を表現するというような「善き生」のあり方を軽視している

→批判が有効でない理由
 ネオリベラリズム市場経済を重視するとはいえ、その思想の実現のために政治を重視する(e.g.サッチャー
(4)「汎金銭主義」批判
・「金銭的なインセンティヴやコミュニケーションは、なるべく減らしたほうが道徳的に望ましい」という批判者の主張

→批判が有効でない理由
1)汎金銭主義批判は汎統制主義と裏返し
ネオリベラリズムは、金銭的価値が一面的であるからこそ、市場では測れない人間的価値を認めることができる(ハイエク
2)家事労働の金銭的対価の問題
金銭価値を導入することで、個人の人格を社会的に保障する場合もある

2 ネオリベラリズムという概念
2−1 定義をめぐる問題

批判者たちの定義:「国家による経済計画を撤廃してすべてを市場の動向に委ねるアナキズム

→過度の単純化
ネオリベラリズムは80年代以降のハイエクフリードマンに代表される思想であり、40-60年代の思想の限界を指摘
■また、ネオリベラリズムは市場の機能を重視するにしても、全て市場に任せる楽観論には立たない
■問題は、どこまで市場の機能に信頼を寄せるのかについて論者によって見解の相違があること
 仮にネオリベラリズムを「小さな政府を求める思想」とすると、論理的にはすべての国家の業務を民間に委ねることができるので、ネオリベラリズムの徹底はリバタリアニズムになる
…しかしハイエクにしてもフリードマンにしてもリバタリアニズムには一定の距離を置いていた(ネオリベラリズムが認める国家の幅には一定の幅がある)
■グローバリゼーションによる諸国のネオリベラリズム化の問題
T・フリードマン…90年代以降のグローバル化が、各国の政治経済政策をネオリベラリズム体制へと収斂させた
(投資家がネオリベ政策を採用している国を経済的パフォーマンスがすぐれていると判断)
しかし、収斂されるネオリベラリズムには一定の幅がある
クリントン政権「新重商主義」、ブレア=ギデンズ「第三の道」もネオリベ
ウォルター…ネオリベの指標である「多国間投資協定(MAI)」を守らない国の方がグローバル化の中で経済成長を遂げている

⇒経済のグローバル化が諸体制の収斂をもたらさないのであれば、ネオリベラリズムの理念と現実を区別して論じなければならない

2−2 現状はネオリベラリズムの体制か
■税制構造…ネオリベラリズムの影響によって福祉国家が縮小したわけではない
  (累進所得税最高税率は大幅に低下しているが、総税収のGDP比はすべてのOECD諸国で増加傾向)
■政治体制…ネオリベラリズム政策を掲げた政権は過去のものとなっている
  (イギリス、ドイツ、フランス、アメリカ、日本)
フリードマン「貨幣供給量K%ルール、教育クーポン制度の国家レベルの実現」、ハイエク「貨幣発行自由化、代表民主主義制度の改革案」はすべて実現していない(未完である)

2−3 ネオリベラリズム概念の形式と実在■言論のレベルでは、現在の先進諸国の体制がすべて「ネオリベラリズム体制」であるという認識が広まっている
 (新しいケインズ主義(新重商主義)、「第三の道」、「新保守主義」もネオリベラリズムの一部)

ネオリベラリズムとは、80年代以降に出現した支配体制である「国家の役割縮小と市場経済の全般化にもとづく自己責任・自己負担の社会」であるが、この意味でネオリベラリズムは、「体制の不安定化」という存在上の「矛盾(反措定)」を抱えている。よって、理念では自由主義経済を志向するとしても、現実では、政府介入を大幅に認めざるを得なくなる。
⇒しかし両者の矛盾は、概念実在論の立場に立てば、歴史の中で概念の弁証法的自己展開をとげるものとして理解される必要がある
⇔ただしこの立場に立って現体制のあらゆる特徴を「ネオリベラリズム」の現実的姿態とみなせば、新たな体制の特徴を見つけ出せなくなる。あるいは、現実社会の中にネオリベラリズムを超える契機を見つけ出せたとしても、それが最終的にいかなる代替的ビジョンに結実するのかという問題が不透明なままである。

2−4 定義の明確化
ハイエクフリードマンの思想的特徴から乖離しても、ネオリベラリズムを価値討議の場で問題化するために、現代社会をネオリベラリズム社会と認識することが必要

筆者のネオリベラリズムの定義
(1)市場経済グローバル化によって生じた先進諸国の体制が持つ一特徴
(2)結果としての所得不平等を容認
(3)公的サービスの提供の仕方に貨幣原理や選択原理を導入しようとする
(4)地域−国家−国際機関の民主的運営を目指すよりも、他国籍企業の支配力を優先
(5)物質的な充足を追求する画一的な消費文化が支配的な影響力を持つ
(6)企業が収益性を求めて行動する結果として、人々の社会的紐帯が脆弱化する
(7)労働者が解雇をおそれて企業に忠誠を誓うという「従順な主体化」を促す
(8)社会階層の分断化と階層間移動の非流動化を容認
(9)人的資本を高めるような訓練の機会を十分に提供できないでいる


・(1)(2)(3)は基本的特徴、(4)〜(9)は副次的特徴
・副次的特徴を克服したネオリベラリズムを以下「洗練されたネオリベラリズム」と呼ぶ
・(3)の特徴について:公共部門を民営化する際には、別の規制機関によって監視する「権力行使の分散管理技術」を各国で用いている
・ここで定義されたネオリベラリズムの概念はハイエクフリードマンの思想を正面から批判的に捉えたものではない
・経済学的にはケインズ主義やマルクス主義経済学の諸教義を一部許容する(詳細は割愛)

3 諸批判を包摂するネオリベラリズム
3−1 第三の道の包摂

第三の道の特徴(p.150、表2)…ネオリベラリズムの要求を大幅に受け入れながらも、「分権的(地域的)な安定性の追求」と「人的能力(潜在能力)の国家的開発」において、国家の役割を認める
ネオリベラリズムイデオロギー的外皮にすぎないのではないかという批判
e.g.?「平等」の理念は「結果の平等」ではなく「機会の平等」を重視し、「教育」や「技能訓練」の国家補助を行うも不平等問題の解決には至っていない、?導入した「コミュニティ」の要素は伝統的な共同体の権威主義を容認、?グローバル化の担い手である多国籍企業や国際機関の活動を反対せず、新たな社会変革の可能性を展望していない

■ギデンズ『第三の道とその批判』における、ラディカル左派に対しての再批判
大企業・富豪・アメリカなどの「ならず者」を制御するためには、所得税の累進率の上昇が望ましいとする左派に対して、むしろ消費と相続に対する課税を強化して、経済成長のためのインセンティヴを上げることを提案。さらに貧者・失業者に対しては「金銭的施し」よりも「自立支援」の政策を行うように、国の財源を人的資本に振り向け、人々の潜在能力を引き出すと同時に、国への依存度を弱めるように援助することを主張。(=定義(2)(3)を容認)
アラン・トゥーレーヌ「第二・五の道」…ギデンズの立場と類似

3−2 福祉多元主義の包摂
■「福祉多元主義」…中央政府地方自治体、民間企業、NPO、家族、隣人などのさまざまなセクターを通じて福祉サービスを供給
e.g.「福祉サービスの民間委託と市場原理の導入」「福祉サービス利用者への一定の所得補償」
→福祉多元主義は、定義(2)(3)と同時に、副次的特徴も容認
体制認識の問題として、ネオリベラリズムの違いを見出すことは難しい
⇔左派からは、福祉サービスの民活導入によってサービスが十分に供給されるのか、利用者側の高負担にならないか、利用者と提供者との間に豊かなコミュニケーションが生まれないのではないかといった論点、またネオリベ政策の下では、「自立していない弱い人間」は福祉サービスのアクセス能力に乏しく、制度を活用できないのではないかという論点が出されている
→こうした論点は、結局のところ洗練されたネオリベラリズムへと包摂される可能性が高い

3−3 新重商主義の包摂
■90年代以降の欧米の先進諸国において社会民主的な政権が誕生(=新自由主義から新重商主義への転換)
e.g.クリントン政権における情報ハイウェイへの国家的投資
  ライシュ『ザ・ワーク・オブ・ネーション』、村上泰亮『反古典の政治経済学』

■村上(1982)のネオリベラリズムの3つの命題
(1)インフレ政策に帰結する「名目賃金の上昇」は、失業率を引き下げないとする見解
(2)貨幣供給量を調整する金融政策の効果は、短期的には財政政策の効果よりも強いとみなす見解
(3)市場機構が実物経済の均衡を達成するための自己調整能力を十分に持っているとする、スミス的な「見えざる手」のビジョン
ネオリベラリズムの根本的特徴は(3)であり、(3)は受け入れられないが、(1)(2)は重商主義政策のシナリオへ統合しようとする
 「楽観的シナリオ」…実行可能性低、高度通信システムや研究開発のための政府投資などを推進
 「悲観的シナリオ」…実行可能性高、「マル優制度の廃止」「住宅取得のための減税」などの貯蓄抑制と消費促進のための税制改革などが提案
→後者はネオリベラリズムに容易に包摂、前者はハイエクフリードマン流のネオリベラリズムとは対立するものの、「新重商主義」は定義(2)(3)に当てはまる点で、洗練されたネオリベラリズムの理念に適う(cf.ボブ・ジェソップ)

3−4 開発主義批判の包摂
■途上国に対する開発援助失敗の問題
→途上国のネオリベラリズムの実態は「開発独裁」であり、先進諸国のネオリベラリズムとは異なる
批判者はネオリベラリズムを人々の民主化を阻害する市場のイデオロギーであると理解しているが、現代のネオリベラリズムは民主主義を否定する思想ではなく、民主主義と市場経済との関係を改良する思想である

⇔にもかかわらず開発独裁国家が「ネオリベラリズム政策」と呼ばれるのは、その政策を先進諸国が支援しているから
またその政策は、ラテン・アメリカ諸国においては「ワシントン・コンセンサス」という理念で表現されてきた
 「ワシントン・コンセンサス」
…1989年にジョン・ウィリアムソンが公表した論文中の用語
 ラテン・アメリカ諸国の開発に関わる機関が、過去20年間に形成してきた暗黙の合意事項
 (1)財政の規律、2)経済的に収益の高い分野と、潜在的に所得配分を改善する分野に対して、公共支出の優先順位を向けること、3)税制改革(限界率の低下と税収基盤の拡張)、4)利子率の自由化、5)競争的な交換レート、6)貿易の自由化、7)海外直接投資の自由化、8)民営化、9)規制緩和(参入と撤退の障壁の除去)、10)財産権の保障)

⇔論者のさまざまな批判(94年メキシコ通貨危機、99年ブラジル通貨危機
→「ポスト・ワシントン・コンセンサス」への転換(p.162,表5)
=「小さな政府・市場の論理」から「政府部門の改革によって経済改革を促進する制度主義」
ポスト・ワシントン・コンセンサスは、定義(1)を途上国にも適用しようとし、(2)(3)はあてはまっている
そもそもワシントン・コンセンサスがネオリベラリズムの思想的表現として最悪だったが、ポスト・ワシントン・コンセンサスへの転換は皮肉にも開発援助におけるネオリベラリズム思想を発展を示すことになった
ポスト・ワシントン・コンセンサスに対する批判…先進諸国において公正な市場経済が実現していない以上、その理念は途上国に移植できない

スティグリッツIMF政策批判:
1)グローバリズムは放っておくと、自生的に支配の一極集中をもたらす以上、私たちはこれに抗して「支配の分散化」を作為的に生み出さなければならない
2)ルール主義に基づく途上国への融資は、結果として途上国の融資を促さない以上、私たちは事情通の人々のイニシアティヴを促して、介入主義の成長促進主義を企てなければならない。
→筆者が呼ぶ「自生化主義」の考えに一致

3−5 教育改革批判の包摂
■日本におけるネオリベラリズムの教育政策は、「教育行政の縮小」を掲げていない
論点は、政府予算の増減にあるのではなく、むしろ教育サービスの提供に「選択」と「競争」の原理を導入すべきかどうかに絞られる

ネオリベ推進派…「選択と競争」原理を導入すれば、教育サービスの重要と供給側の双方に持てる潜在能力を有効に引き出す効果がある(e.g.学校選択、授業選択の自由化)

ネオリベ批判者の主張の論点
1)階層間格差の問題ネオリベラリズムの政策は、教育選抜を通過した「少数の勝者」の生活を保護する一方で、「大多数の敗者」の生活を市場経済のリスクに晒し、それはまた、所得格差の拡大や階層間移動の減少をもたらす点で、正義の理念を満たしていない
→義務教育制度にできるのは、スタートラインの実質的平等の保障のみであり、定義(2)の「結果の不平等の容認」を覆せない
定義(3)の「選択・競争原理の導入」についても、階層間格差の是正の観点から捉えると肯定的に捉えることが出来る(e.g.能力別クラス編成)

2)「社会統合」の問題ネオリベラリズムの教育政策は、選択の自由や競争原理の導入によって、社会にアノミーやカオスを生じさせ、必然的に「愛国心」による非民主的、非市民的社会統合を導き寄せる
ネオリベラリズムの社会政策が導き寄せる「国家的保守主義」の是非
e.g.教育基本法における愛国心教育の問題(反対者は、社会統合のために「世界市民としての自律」を掲げているが、「愛国心」と「世界市民」は互いに拮抗しつつも、他を否定するものではありえない)
→学校選択の自由や能力別クラス編成の推進者が必然的に国家保守主義者ではない、という事実によって例証
問題は、ネオリベラリズムにおける社会統合力のオルタナティヴをいかに構想するか、という点にある

3)「主体化」の問題…批判1:ネオリベラリズムの教育政策は、能力主義によってエリートを育てることができるとしても、非才・凡才・障害者に対しては無策であり、これまでの公教育が有していた「規律訓練型権力=主体化作用」を市場競争下での「自己責任」「自助努力」によって、人間本来の意欲や主体性を発揮できないような社会を生み出す
…批判2:ネオリベラリズムの教育政策は、人間本来の主体性を育むものではなく、市場において通用する人材の理想を強要する教育であり、望ましくない
フーコー以降の社会学は、近代社会が「本来の主体性」を求める裏で、「悪しき規律訓練型権力」を作動してきたことを告発してきており、これを踏まえるならば、「人間本来の主体性」を実現する教育が国家の教育制度として適切であるかを疑う必要がある
かりに「人間本来の主体性」を実現する公教育が理想であるとして、そのような教育実践にふさわしい社会は、ネオリベが提案する「学校選択の自由」と両立しうるのではないか

4)「人的資本形成」の問題
…批判1:ネオリベラリズムの教育改革は、エリート教育や大学の重点化を進める一方で、多数のフリーターを生み出しており、人的資本の形成の点で国富増大の企てに失敗している
…批判2:ネオリベラリズムの教育政策は、経済ナショナリズムに焦点を当てる結果として、未来の理想的世界観を予科した教育や、地域社会のコミュニティ資源を用いた教育の可能性を十分に探究していない。その結果、ネオリベラリズムの教育は、グローバル化する世界経済において生き残るための知恵を子どもたちに伝授しておらず、多元的で多層的な次元にまたがる人的資本の形成を十分に達成できていない。
→深く傾聴に値する
実際、ネオリベラリズムの教育は「ダブル・バインド」状況を与えている
…子どもたちに対して「勉強するかどうかはあなたの自由」という無期待を装いつつ、「とにかく一生懸命に何かせよ」というエネルギッシュな倫理(「強度」の倫理)を要請
→(a)それが子どもたちの潜在能力を引き出さないから批判されるべきなのか
 (b)子どもたちの潜在能力を引き出すように強制するから望ましくないのか
 (c)子どもたちの潜在能力に対する「無期待」と「強度」の両方をダブル・バインド状況下で要請するから問題なのか

⇒いずれもネオリベラリズムの理念に包摂
 (a)の批判:ネオリベラリズム政策の現実を批判して理念を肯定しているので、規範的含意を「洗練されたネオリベラリズム」に位置づけることが可能
 (b)の批判:ネオリベラリズム政策の理念を批判して現実を肯定しているので、「粗野なネオリベラリズム」肯定論として位置づけることが可能
 (c)の批判:ネオリベラリズム社会において要請される道徳状況であり、ダブル・バインド状況にうまく入りこむことが人格の成長には必要。そのために必要なのは無差別の愛(?)

5)「改革過程」の問題
…批判1:ネオリベラリズムの教育政策は、財界の要請と社会学者を中心とする有識人の提言に基づくものであって、教育者や教育学界の内発的な改革ではない
…批判2:ネオリベラリズムの教育改革は上からの改革であって、親と教師の共同実践にもとづく内側からの計画ではない

→依然として開かれた問いとして残されている

■いずれの批判もネオリベラリズム政策に代替する構想を提示するものではなく、むしろ一層「洗練されたネオリベラリズム」に近づける役割を果たしている

■自生化主義の主義の観点からいえば、教育機会の実質的平等は、生徒に同じカリキュラムを与えることではなく、むしろ子どもたちが自らの潜在能力を最大限に開花できるように等しい配慮を配ることでなければならない

4 ネオリベラリズムの補完、超出、ダミー
ネオリベラリズム批判のなかで、体制を補完するもの、自生化主義の観点から評価できるもの(=超出)、ネオリベラリズムのダミー(替え玉)となっているものについての検討

4−1 「世界社会フォーラム」の思想
世界社会フォーラム…99年のサパティスタの反乱、99年のシアトルにおけるWTOのへの抗議、それに続く各地での抗議を統合し、2001年に創設。
・運動の主眼は社会民主主義の勢力を葬り去ること(ネグリ/ハート)
・「熟議民主主義」を理想とせず、人々のネットワークを闘争のアリーナとして構成し、断片化された論争の場と、相互に学び合うような「教育の空間」を提供することを目指している
ネオリベラリズムが取り組んできた中心的な問題(電信・電話事業の自由化、郵便事業の自由化、国鉄の民営化、道路公団の民営化、教育クーポン制度)には反対していないように見える(p.180-182 世界社会フォーラムの理念10項目の要求)

→ただし、反グローバリズム運動が示しているネオリベラリズム批判とその洗練化は、たんなる「分散的で多中心的な統治の技術」を超えて、人間の生き方に関わる道徳的な実践に関わるものである(e.g.市場の価格と「環境の悪化」との関係)

世界社会フォーラムが謳う「オルタナティヴな世界」とは、ネオリベラリズムの世界を道徳的・政治的・市民的に洗練させた世界に他ならない(世界の洗練化は、世界社会フォーラムだけでなく、リベラル国際主義派、制度改革派、グローバル変容派、国家中心主義派/保護主義派、ラディカル派などさまざまな立場によっても表明されている)

4−2 補完を超える自生化主義
■フランスの非営利団体ATTAC…中央集権的な統治を求めており、ネオリベラリズムの理念とラディカルに対立する
・ATTACの政策構想
1)地域民主主義を活性化すること
2)金銭資本に課税すると同時に、その税金の用途を市民的に管理すること
3)公共事業体が経済的牽引力を発揮すること
4)商業的グローバル化によって存在感を失ってしまう人々には、文化・芸術による対抗的自尊心の育成を企てること
5)国際的相互理解の交流を深めること

1)4)5)はネオリベラリズムの洗練につながるが、2)3)は反発する→トービン税(為替取引税)の導入とその徴税機関の設立
⇒筆者はトービン税の構想を「自生化主義」の観点からネオリベラリズムに継承することができるとしている(第9章)

ヴァンダナ・シヴァの開発主義批判と生物多様性の擁護論
…開発主義に代わって、女性と貧民の持つ豊かな知恵を「生命力」の観点から導入しようとする
「設計主義=開発主義」と「女性原理」との対比
(「設計主義(社会主義)と「自生的秩序」を対比させたハイエクの思想と重なる)
市場経済システム」と「女性原理」の対比
⇒シヴァの理念は「自生化主義」の理念と親和的
多文化主義に基づくネオリベラリズム批判
「反本質主義」(いかなる民族の文化もハイブリッド性を免れないとする見解)は意図せざる政治的帰結として、少数民族に対する福祉削減を招く(←すべての国民がハイブリッドであるとすれば、少数民族に対する追加的福祉を正当化できない)
オルタナティヴとして、マイノリティたちのエスニックな文化資本や公的資源へのアクセスを積極的に促すことによって、脱国家的でハイブリッドな社会秩序の形成を展望するという方向性がある(⇒自生化主義の理念に適う)


4−3 ネオリベラリズムのダミー

■ニコラス・ローズに代表される、フーコー派のネオリベラリズム批判
ネオリベラリズムの社会は、たんなる市場原理主義ではなく、さまざまな「福祉国家批判」を思想的源泉にしている
=「アドヴァンスト・リベラリズム(先進的自由主義)」(ローズ)
アドヴァンスト・リベラリズムの体制は、権力の分権化・民営化や、市場メカニズム=選択的原理の政治的利用によって「統治の合理化」をはかった社会に他ならず、「統治からの自由」の理念と可能性を無視したものである
・「統治なき社会」の理念
1)どんな統治体制であれ、その権力作用から逃れるための知恵と機会(フレキシビリティ)を獲得しうる社会
2)他者のまなざしと自己検閲の両方から遮られた領域(アンダーグラウンド)において、各人が「自分のなし得ることの果てまで進んでいく力」を発揮しうるような社会
3)統治権力の作用を承認しつつも、それを規範的に内面化せず、むしろ自己の内面的世界において絶対的な距離を置くことのできる社会と同時に、統治権力とは無関係の領域において、自尊心の基盤を獲得することのできる社会

⇒問うべきは、脱国家化・脱政治化された統治からの自由はいかにして可能か、という問題
「統治からの自由」を求める人々の欲求や意志は、ネオリベラリズムの統治体制が要請する契機として、すでにシステムの中に組み込まれていることになる(=ネオリベラリズムの「ダミー」)

ネオリベラリズムの隠されたプロジェクト
ネオリベラリズム体制が「リスクを積極的に引き受けつつ自由を有効に利用する行為者」を育成するためには、「統治からの自由」を持った心性を人々に持たせる必要がある
⇒「ネオリベラリズム」の統治体制に依存しない自尊心(アイデンティティ)の獲得、統治と関係ない領域で「善き生」を見出すことが隠されたプロジェクトである

ネオリベラリズムは、すべての人々に否定されることによって逆説的にその理念を実現する→神義論の不可能性へ

5 神義論の不可能性
5−1 幸福と不幸の神義論:二つの不可能性

■幸福の神義論
…幸福な生活を営んでいる私たちは、いったいどうしてこのネオリベラリズム体制において幸福であることが正当化されるのであろうか(さまざまな派生問題、裏側に「不幸の神義論」が存在)
ネオリベラリズムは、この神義論の問題において十分な答えを与えることができない

ネオリベラリズムの体制は、それがどんなに洗練されていても、人々がこの体制に深いコミットメントを示すとは考えにくい。また、ネオリベラリズムの体制がどれだけ「善き生」を育むとしても、それは体制全体に対する人々のコミットメントから生まれているとは考えにくい

ネオリベラリズム的なグローバル化は、その世界観において「人間らしさ」という「善き生」を犠牲にする。
⇒「神義論」の不可能性に直面
不可能性(1):
「真価(dessert)論」
…個々人に対して、自分が「幸福で豊かなこと/不幸で貧しいこと」に対する正当性が与えられない
(自らの社会経済的位置の理由=対価の不在)
不可能性(2):
「信念(belief)論」
…なぜこの体制で幸福/不幸であることが正当化されるのか、という問いに答えられない
(望ましい社会・道徳的価値の不在)
不可能性(3):
「潜在能力(potensia)論」
ネオリベラリズム体制下で、人々が自らが幸福であることが必然である、あるいは不幸であることが「仕方のない
こと」と考えるならば、それは各人の持つ潜在的力能の開花を抑圧する(潜在的力能の抑圧)

5−2 国民国家の神義論を超えて
■幸福/不幸の神義論を満たす社会とは、いかなる体制か
・「真価論」における幸福の神義を満たす社会…社会主義
・「信念論」における幸福の神義を満たす社会…共同体主義
⇒両者ともに制度運営について固有の困難
社会主義は「合理的な資源配分の計算不可能性」、共同体主義は「共有価値に包摂されざる者に対する抑圧」の問題)
・日本の戦後民主主義は、両者を部分的に満たすことで「幸福の神義」を与えてきたが、グローバリズムの進展は、これを破壊する
ネオリベラリズムの台頭
ネオリベラリズム批判(対案なきアナキズム)の流行(=神義論の意義の上昇)
ネオリベラリズムの正当性上昇
              
■幸福の神義論において求められるのは、ネオリベラリズム体制を根底において認めつつも、それを問題化する態度
 「引き裂かれた自己」を引き受ける
 「汝、自身の敵となれ」

5−3 「幸福の神義」と「帝国の構想」
■「汝、自身の敵となれ」という命題
→成長論的自由主義の観点から、一つの道徳的要請として位置づけられる

■世界連邦政府の理念ならば、再び「幸福の神義論」を回復できるかもしれない
→現実には理性と信念を傾けるだけの信念を担保していない
⇒「帝国」という問題

■帝国のなかで「幸福の神義」を追求するための構想
1)世界連邦政府を構想するために、理性の公共的な使用を企て、その政府のための財源をいかにして確保するかという問題に取り組むこと
2)道徳的な観点から、グローバルな正義へのコミットメントをもつことであり、そのための道徳哲学を持つこと
3)より善き生の探求のために、他者と自己の「魂」に対して配慮することであり、そのための世界観として「神々の闘争」を受け入れること

コメント
・p.177に「教育機会の実質的平等とは…自らの潜在能力を最大限に開花できるように等しい配慮を配ることでなければならない」とあるが、その「潜在能力」への配慮は、誰がどのように行うのか。
・「引き裂かれた自己」(p.206)は神義論を乗り越えるための要請として人々に受け入れられるのか。
・上の点とも関連するが、「ダブル・バインド状況」(p.174)は道徳的状況においては、要請される態度かもしれないが、人的資本の形成には、どのような効果を及ぼすのか。