「再帰性」と「反省」

自分用のメモ。

“反転”するグローバリゼーション

“反転”するグローバリゼーション

…この異なる二つの契機を、ベックは「再帰性(リフレクシビティ)」と「反省(リフレクション)」の違いとして強調している。再帰性という言葉は、往々にして「反省」と回流のものだと理解されているが、ベックに従えばそれは誤りである。再帰的な近代への移行は、「反省」という言葉が示唆するような、人びとが望んだり、選んだりしたことによって生じるのではなく、強制的な「自己との対決」として生じるものなのだ、という点に、とりわけ披は注意を促している。(・・・中略・・・)
ここでベックは、再帰性という概念を(ギデンズとは若干異なり)動的なものとして捉えようとしている。ギデンズの言う再帰性が、どちらかといえば「自己準拠性」、ないし近代的な要素の相互規定性という点に着目しているのに対し、ベックは、再帰性というメカニズムが、私たちに「否応なしの」変化を突きつけるというところに、その特性を見出している。だからこそ、再帰性と反省は異なるものであるというだけでなく、反省なき再帰住もありうるという点を、ベックは見過ごしていないのである(pp.230-232)。

なるほど。ベックとギデンズの再帰性の差異はなかなかに重要。
で、次の引用がすばらしい。わかりやすい。

このことを踏まえて、再帰性という概念を理解するために、次のような実話を思い出してもいいかもしれない。ある犬が、肉を咥えて歩いていた。橋の上まで差し掛かったとき、ふと橋の下を見ると、そこには肉を咥えたもう一匹の犬がいることに気づいた。そこでその犬は、橋の下のもう一匹の犬に向かって吠えたて、肉を置いていくように脅そうとした。が、吠えた瞬間、肉が犬の口から滑り落ちてしまった。そのとき犬は初めて、橋の下にいると思ったもう一匹の犬は、水面に映った自分自身であったことに気づく――。
 この寓話は、「反射」という意味合いに近い「再帰性」という単語の両義的な意味を、非常によく表現している。寓話の中で犬は、肉を取り落とし、橋の下にあるのが自分を映す水面なのだ気づいたことによって、自らを省みる機会を得た。しかしこの犬が、肉を咥えておらず、いつまでも吠え続けていたとしたら、どうだろうか。犬は、永遠にそれが自分であったと気づくことができず、独り相撲を続けることになる。ベックが危惧するのは、後者のような事態である。再帰性とはその意味で、私たちの前に置かれた鏡のようなものだ。私たちは、その鏡から目を背けて生きることができない。再帰的な近代においては、隣でいつも私を見ているあの人のようになりたいと思うことが、実は、鏡に映った自分自身になりたい、と望んでいるだけだった、という事態が頻発する。それが鏡に映った自分だったと気づく(反省する)ことができるかどうかという点は、再帰性というメカニズムにおいては、決して自明なものではないのである(p.233)。

カーニヴァル化する社会』でもパノプティコンモデルの比喩がクリアだった。
たとえ上手なチャーリー。

論文で使う。